耐震化校舎外壁があらわる!

校舎の外観が大きく変わりました。今まで工事用足場を3階まで組み、それを覆っていた外壁のおおいが取り除かれ、校舎の外観が全貌を表しました。校舎を外側から支える「つっかえ棒」の役割を果たす、今までの校舎外壁に沿って約3~4㍍ 幅で造られた建造物が姿を現しました。大きなものですが写真を見ていただいたら分かるように、それほど違和感がありません。校舎内いたる所で行われていた、壁を壊して作り替える耐震化の工事もあとわずかで終わりそうです。

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長崎歴史文化博物館見学

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 3月18日(金)中学1・2年生は長崎歴史文化博物館に見学に行きました。1年生は「長崎の禁教の歴史」、2年生は「出島の存在意義と出島内での生活」がテーマです。8時45分現地集合。早い人は7時40分に到着していました。9時からガイダンスが行われ、博物館の役割や、博物館で働く学芸員についてなどのお話を聴きました。
 その後、学年ごとに学芸員の加藤さんと下田さんに説明していただきながら館内を移動しました。お二人のお話を生徒たちはしっかり聴いていました。
 生徒の感想を以下に掲載します。

浦田 海希(中学1年1組)
 今回「長崎歴史文化博物館」に行って、一番印象的だったことは博物館の裏側を特別に見せていただいたことです。まず、初めに収蔵庫を見ました。そこで驚いたことは、扉のふたの分厚さと2万を超える資料の収蔵の仕方です。1年365日、ずっと室温22℃、湿度60%だったからです。この温度と湿度は一番最適なものだそうです。次に見せていただいたのは保存修復室です。この部屋は貴重な歴史資料が虫に食べられてしまったときに傷んでしまった資料を和紙に糊をつけて、2週間くらいかけて仕上げるそうです。すごく大変で一番したくないと思う作業を一人でやる人はすごいと思います。僕だったら絶対出来ないと、見ていて思いました。

早川 祥平(中学1年1組)
 僕は見学に行って一番印象に残ったことは、保存修復室で働いている人の言葉です。質問で「給料はいくらですか?」と聞いたら、値段は答えてもらえませんでしたが、その人は「給料は安いかもしれないけど、長崎の貴重な歴史資料を未来の人たちに残せれば、給料が安くてもいい!」と言われていました。あんな大変な作業を楽しんで一人で、しかも給料も安いと思ったら、僕はそんな仕事は出来ないだろうなと思いました。でも、その話を聞き、僕も給料が安くても何か思いが伝わる仕事をしたいなと思いました。

竹谷 比呂稀(中学1年2組)
 博物館の裏側を初めて見ました。長崎歴史文科博物館の命でもある歴史書や文書などが保管されている所のとびらがとても厚かったので驚きました。刀とかが保管してある場所は種類別に湿度や温度を細かく変えているところが、ここの博物館の人の丁寧さが伝わってきました。展示物の説明も一つ一つ丁寧に教えて下さったので、楽しくかつ分かりやすく見学が出来ました。たとえ資料がボロボロで虫に食べられていても修復室で専門の人が一つに約2週間かけて修復するので、現代の人にももっともっと昔のことが伝えていけたらいいなと思いました。次はどんな展示があるか楽しみです。

松田 天星(中学1年2組)
 今回の見学は歴史の授業と丁度はまっていて、その授業で出てきた踏み絵や南蛮屏風など実際の物を見られてとても面白かったです。特に踏み絵は実際見ると小さくて、持ってみると結構重かった。見学で長崎はキリスト教、中国、オランダなど色々な国、宗教と関わりがあることを改めて学びました。このような関係がなければ、今の長崎や日本がなかったかもしれないので、中国などの技術を有効に使って今の人生をがんばって生きたいと思った。
黒川 優太朗(中学2年1組)
長崎歴史文化博物館の見学に行きました。2005年11月開館し昔の長崎奉行所の一部を復元したものだそうです。安土桃山時代から明治時代までの長崎の歴史を紹介し、奉行所に入る階段は、発掘された物をそのまま活かして作られたようです。長崎はオランダや中国と関係が深く、オランダ人は出島、中国人は唐人屋敷に住み中国の人は福建省から来ていたそうです。博物館の役割は①集める(収集)②未来に残す(保存)③調べる(調査研究)④見せる(展示)⑤伝える(教育)で、これらのことをいつも大事にしていると言われていました。
出島には単身赴任のオランダ人が住んでいて、男ばかりだったと聞いてびっくりしました。この見学では大河ドラマ館が一番印象に残りました。普段は見ることの出来ないバックヤードも見学できてとても良い体験になりました。

篠田 健太(中学2年1組)
 見学ですごいと思ったこと。①収蔵庫では約28万点の「モノ」を室温22度、湿度60%に常に保っている。②出島には男の人しかいなかった。③出島はもともとポルトガル人のために作った。キリスト教が禁教になり平戸にいたオランダ人がやってきた。④虫に食べられた資料を修復する人がいて、和紙を使って直していた。⑤収蔵庫は一つ一つの鍵が丈夫でドアが分厚い。
 この博物館では色んな仕事をしている人がいて、見学に来れるのもこの人達がいるお陰だと思いました。またゆっくりに見に来れたらいいなと思いました。
 
池田 豊和(中学2年2組)
 今回の見学で印象に残ったのは保存修復室です。どんなに小さな穴も直してしまうということです。汚れを落とし、新しい和紙を穴の大きさぐらいにちぎり、糊をつけてはるという作業です。何枚もあって、穴の大きさも小さい物から大きい物までたくさんあります。僕にはこの仕事は向いていないと思います。なぜなら僕の集中力は30秒と持たないからです。なんなら集中力を分けて欲しいです。
 和紙を食べる虫にも色々な種類があることが分かりました。この作業をしている人は28年のベテランの人です。よく28年も続けられたなぁと思いました。また、普通のノートとボールペンだと100年しか保たないのに和紙と墨は1000年以上保つということに驚きました。
 今回の見学で、ちょっとだけ歴史に興味がわいたので、ちょっとだけ歴史の勉強をしたいところですが、来年の社会は公民でした。

小道 智輝(中学2年2組)
 今日はとてもいい体験が出来たと思います。小学生の頃に何度が行ったことがあったけど、小学生の頃は難しくて理解できなかった事も理解でき、また新しい発見もあってとても楽しかったです。博物館の係員には誰でもなれると思っていたけど、学芸員という資格が必要だと分かりました。一番印象に残っているのは富川さんの仕事です。僕たちが見ているきれいな資料は、裏であんな努力があっているかにらだと知って、とてもスゴイと思いました。もう一つは資料の保管庫です。色々な機能があってとてもスゴイと思いました。やっぱり色んな人の裏の努力があって博物館は成り立っていると思うので、その人達の苦労も考えながら、マナーを守って見学しないといけないと思いました。普段体験できない事や授業では教えられない歴史の奥の奥まで勉強できて良かったです。僕たちが楽しく見学できるように準備していただいた学芸員の皆さん、ありがとうございました。

第59回卒業式

 平成23年3月12日(土)、本校5階講堂において卒業証書授与式が行われました。
 今年度の卒業生は36名です。全員が南山高校に進学することが決まっています。3年間の中学生活が終わり、4月からの高校生活に入る区切りの卒業式です。
 今年の卒業生は、学習面で立派な成績を上げるだけでなく、南山中学校に新たに生徒会をつくり、高校生の生徒会役員と一緒に活動を始めてました。また、クラブ活動でもサッカー部の全国大会3位を初め、柔道部3名が個人戦で全国大会出場するなど活躍してくれました。今後学習面・クラブ活動面での活躍が大いに期待されている学年です。今回の卒業式では3年生だけで「卒業の歌」を歌い、新たな試みにも取り組んでくれました。
 これから新たなステージで、一人一人が自分の夢を実現すべく、前進してくれることを期待しています。

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トイレの改装完成・耐震工事も急ピッチ

 校舎の耐震工事と共に進められていたトイレの改装が完成しました。中学生が使っていた2階・3階のトイレは古い床やタイル張りの壁が取り崩され、土台からきれいに作り替えられました。各階のトイレには、洗面台が左右に3人分ずつ、小便器は全部で8個、大便器は洋式3個、和式1個、更に手を洗った後の乾燥機も左右に1個ずつ取り付けられました。これからはきれいになったトイレで、すっきりリフレッシュできそうです。
 耐震工事もいよいよ大詰めになってきました。1階の応接間の壁が取り壊されています。これから鉄筋を入れ厚さを増した頑丈な壁が作られるようです。3月の年度末までには完成しなければならないので、工事はこれから急ピッチで進むものと思います。

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南山学園の防空壕

 長崎南山学園には防空壕の跡がある。テニスコートと校舎の間の崖にそれはある。現在は土が埋め戻されているが、防空壕の穴の淵ははっきりと分かる。時々、修学旅行の学生が案内人の方につれられ見学に来ることもあったが、原爆慰霊碑が長崎工業高校に移されてからは、その数もめっきり減ってしまった。南山と原爆について記録に残すことが大切だと感じている。生徒たちにも知っておいてもらいたいと思い、証言の会で原爆の話をされている濱﨑均先生(※末尾に記す)にお願いしたところ快く書いていただいたので、その内容をここに記録しておきたいと思う。(南山学園の敷地は戦時中、県立長崎工業学校でした)。
長崎県立長崎工業学校防空壕の記憶
             (原爆当時)同校 第1本科造船科3年  濱﨑 均
                          ※原爆当時は、川南工業株式会社香焼造船所に 学徒動員中

私の記憶の中の防空壕
 校舎に向かって右手に崖がある。上は畑。この崖は軍事教練の場所でもあった。崖の上から下まで滑り降りる訓練である。腕などを擦りむくことはあっても不思議とけがはなかった。 この崖に三つの大きな防空壕を生徒たちは掘った。いつ頃から掘り始めたのか、記録はない。場所については、当時、電気科の科長・教頭であった本多輝政氏が書いた地図がある。(※「創立五十周年記念誌」P101)
 掘る道具は、つるはし・スコップで、土の運搬も人手によるモッコ・ザルである。これは家庭用も軍用もほぼ同じだった。
 学校外で〔防空壕のことが〕私の記憶にあるのは、南山手の要塞司令部(現・海洋気象台あたり)、護国神社(油木町)、香焼島の高射砲陣地である。
 学校の壕については、2年時の記憶が少しあるだけである。
 掘っている最中に空襲警報が出てそのまま壕内にいたことが何回かある。その中の一回、警報が解除されたので外へ出てみたら、壕のやや左手前方の遠い所から煙がもくもくと上がっている。方向から見ると大村であろう。当時、大村には海軍航空隊があり、海軍航空廠(工場)や工員養成所があった。(戦後はこの工員養成所が工業学校になった)それで何回か空襲を受けたことがある。その中の一回を私は見たのだろう。
 防空壕の内部がどうなっていたか記憶にはないが、当時、工業化学科2年の宮崎米敏氏がこの壕内で助かり、少しの記録がある。<後述>
 3年になってからは、原爆投下の翌日、8月10日に兄〔濱﨑さんのお兄さんも長崎工業の生徒だった〕を探しに学校へ行ったとき、防空壕を覗き、生存者を確かめたことがある。一つ目、二つ目は反応がなく、三つ目の壕で1年生が一人出てきた。木材工芸科で、家は北高来郡の長田だという。こんな状態だから家へ帰りなさいと言って帰らせた。
 以上が、私の知っている全てである。

※「創立五十周年記念誌」P101の地図
(付記:×印は、死体のあった場所である。地図の中央付近、×(赤色)機械助手と書かれたところに印がついている。これは濱﨑先生がつけられたものと思われる。濱﨑先生のお兄さんは原爆落下当時、長崎工業学校4年生で助手をされていた。この場所で亡くなられたものと思われる。)
 

長崎工業学校 幸運の生存者  〔「証言」第11集・長崎の証言の会〕
   (証言者) 宮崎 米敏     
   (聞き手) 濱﨑 均
防空壕の中で電気が切れた!
 昭和20年、私は長崎県立長崎工業学校の工業化学科2年生でした。3年生以上は学徒動員で学校にはいませんで、1・2年生が作業で学校に出ていました。校庭の隅には、たしか高射砲が据えられていたと思います。
 私は南高来郡小浜町の出身で、浜口町の電停付近に下宿していました。警報が出ると、学校近くに住んでいるものは保安要員としてすぐ登校するようになっていました。それで私も警報のたびに登校していました。御真影(※末尾に記す)の保安ですよ。
 8月9日は朝から警戒警報が出ましたので登校しとったとですよ。空襲警報が出ましたが解除になりましたね。30人か40人は登校していたと思います。そして、防空壕掘りの作業をしました。
 防空壕は校舎の裏の崖に3か所掘っていましたね。そして20メートルぐらい奥で横につなぐようにしていたんですが、前日の8月8日に開通しました。それで、土出しに壕の中へ入ったわけです。
 この時、集まった人数を前後列に分けて、前列が先に作業することになっていました。私は初め、後列におったとですよ。それが何かのはずみで前列になって壕へ入りました。後列の人は壕の外にいましたので全部死んでるんです。何で前列に入ったのか、ちょっとしたことですが私は今でも分からないんです。これが運命の分かれ目でしょうね。
 入口から20メートルぐらい奥で、暗いから電気がついていました。私はスコップでモッコに土を入れ、モッコ係はモッコをかついで外へ土を捨てに行くのです。
 防空壕は中を坑木できちっと組んで、丈夫なものでした。私がモッコに土を入れ、モッコ係が外へ出たとき、いきなり、パーンとはじけて電気が切れ、真っ暗になりました。しばらくは気絶していたようです。気がついてから「山本」と言ったら「おう」と返事がありました。原爆はピカッと光ってドーンという爆発音がしたということですが、壕の20メートル奥にいた私には光も音もわかりませんでした。
 坑木は倒れ、電気が消えたので真っ暗で何がどうなっているのかわからないところへ、1年生が「痛か!熱か!」と言って泣きながら入ってきました。私たちは戦時中の教育を受けていますから、「何ば泣くか、頑張れ」と言って、元気づけをするつもりで背中を手の平でたたきました。
 外へ出て1年生の背中を見たら、手形がべったりついていました。皮膚が全部なくなっているので、生まれたばかりの赤ちゃんのような肌に励ますつもりでたたいたものですから、手の形がついてしまったわけです。驚いてその1年生をよく見たら、あごの下とか手とか、皮膚の皮がぶらさがっているんです。それでびっくりしたんですよ。

ゴーゴーと火の柱
 外はほこりで何も見えません。どのくらい時間がたったのかわかりませんが、ゴーゴー音だけ聞こえるのですよ。校庭の端に行ってみたところ、ものすごい音で、火柱が竜巻になってゴーゴーゴー上がるんですな。色は真っ赤でした。その幅は50メートルぐらいありゃせんだったかと思いますよ。
 この火柱だけ見えて、あとは真っ暗で何も見えません。そのうち、ほこりが静まって見えるようになりました。校舎がペシャンコでした。火の手はまだありませんでした。たいていの人は校舎が倒れてすぐ燃えたと思っているようですが、そうではなかったのです。
 そのうち、「助けてくれろ」「助けてくれ」と声が出るけれども、校舎がペシャンコになって、その下敷きになっとるのですからどうしようもなかったんです。壕掘りには裸で入っとったけんどうしようもなく、手のほどこしようがありませんでした。
 いっしょにいた1年生をよく見たら”ひも”をさわっている。よく見たら目の玉が飛び出していました。気もまぐれてしもとったとでしょうな。目の玉が飛び出しているのは初めて見ました。
 学校は高台にありましたから、ここから市街を見おろしたら、何もなく平らになっとるでしょう。鉄筋コンクリートの山里小学校からはまもなく火が噴き出してきました。そして、ドスン、ドスンと地響きして音がするんですよ。今考えてみれば、浦上天主堂が壊れて落ちる音ではなかったかと思います。
 手のほどこしようもないし、ゴーゴー鳴って火の柱はあがるしで、これはどうしようもない。家から自分を探しに来るだろうから、逃げるだけ逃げてみようではないかと話し合って周囲を見たら、金比羅山の方しか、火の手のなか所はあいとらんとですもんな。

金比羅山へ逃げる
 学校からまっすぐ裏の畑を通っていきました。そのころは食糧難ですからかぼちゃやなんや、いっぱい作っとったでしたい。それが、石垣の所に一か所にかたまっていました。印象に残ったのは、親ぶたが子ぶたを連れて、周りはぺちゃんこになって助けてくれろ、助けてくれろという声の中で歩いていました。どんなにして助かったのでしょうかね。
 かぼちゃや畑をちょっと離れた所に墓地がありましたが、初めてそこを通りました。学校が燃え出さないうちに出てきたということですね。とにかく、時間の感覚はありませんでした。
 途中で、頭をけがした人が赤ちゃんをだっこしていて、「私はもうだめだからこの子を何とか連れて逃げてくれろ」と言って寄ってくるんですよ。この時だけは身の毛がよだちました。地獄ですよ。ほんと。どうしようもない。
 長崎大学の帽子をかぶった人が腸がちぎれていたり、頭から脳みそが飛び出していたり、その人はこめかみが取れとったとですよ。そんな人がごろごろいるんです。
 逃げていったのは、いっしょに壕にいた山本昇くんと二人です。一年生の生徒は「痛か、痛か」と言うて。手を引いて連れて行こうとしても、やけどして苦しかったとでしょうね。火の方に向かって走ったとですよ。金比羅山は後ろでしょう。わからんようになっとったでしょうね。追いかけていく余裕もなかったし……。どうなったでしょうかね。
 金比羅山へ行く途中に黒か雨が降ってきました。にわか雨ですごかったですよ。大粒の雨の。降った時間は15分か20分ぐらいですかな。
 田んぼや畑の道でいちばん近か所を歩きました。山の中に入ると、木の葉が全部落ちて道も何もわかりません。それで、道の凹凸もわからず、穴の中に落ちたり、木につかまったりして歩きましたが、はだしなので、いげだらけです。木は倒れていませんでしたが、全部雑木で葉が落ちてしまっていました。
 たまたま上を見たら、真っ黒か煙が舞っていました。このときはもうだめだと思いました。山に火が入ってきて、我々はもう助からんと思いました。妙なもので、そうなると腹がすわってしまいましたね。
 周りを見ても、今は、山に登るものは私たち二人だけでだれもおりません。何か目印になる物を置いていきたい思って石を探したのですが、どうしても見つからんのですよ。木の葉が落ちて石が見えないんですね。

金比羅山の高射砲陣地へ
 何とか目印になる石をと思って登っていったら、高射砲陣地に出たんですよ。陣地に行ったところが、兵隊が怒るとですもんな。何しに来たかと、そりゃもう大変な剣幕でした。こっちも一所懸命登ってきたとに。そのおごり方(怒り方)がひどかとですもん。
バラックの建物は全部飛んでしまっているし、カメやなんか転んでいて大変でした。どこをどう登って行ったのかわかりません。

西山を通って田結(たゆい)へ
 それから竹やぶを通って西山へ下りました。西山の人は浦上で何が起こっているのか知らないようでした。それで、私たちをじろじろ見らすとですよ。裸ではだしで真っ黒になってざまなかったんでしょう。靴は、当時配給制度で大事なものでしたから防空壕を掘るときははだしで、裸ですよ。そしてはだしのまま逃げてきましたのでね。回りには私たちのような人はいませんでした。私たちが一番早く西山へ来た被爆者だったのでしょうな。
 県立女学校の前あたりに来たとき、道はガラスの破片でいっぱいでしたので、これでははだしではよう歩けんと思って、ある民家に入って、ぞうりば一人一足ずつ、だれもいないので、無断でもらいました。西山の人たちは全部避難してしまったのでしょう。人間はだれもおらんとですよ。とにかく、はき物をはかんと歩かれない状態でした。
 それから蛍茶屋、本河内といきました。本河内へ行く途中、木材工芸科の中尾という先生とあいました。機械科でしたかね。その先生が「学校はどうなってるのか」と聞かすとですよ。でも、私たちのかっこうが見られたざまではないのですから、通りがかりにあった井戸で、先生がポンプをついて洗えと言われて顔や体を洗いました。
 そのころになってようやく人心地がついたようでした。それまでは逃げるのに一所懸命でしたからね。
 そのころ日見トンネルは半分がトンネル工場になっていましたが、そこを通ったとき、「宮崎くん」と呼びかけられました。ひょっと見たら小浜の人で、床屋さんをしていた人がたまたま動員でそこにいたんですよ。その人が「なんでお前は裸ではだしで歩いとるとか」と言うんですよ。足は先ほど言ったように、ぞうりをはいとるとですがね。そして「こいでよければ着んか」と言ってその人の菜っ葉服をもらい着ました。
【後半は省略】

付記(聞き取りをされた濱﨑先生が証言の後書きとして書かれた文章)
 私は8月10日の朝、機械科助手をしていた兄を探して工業学校に入ったが、運動場に寝かされていた井上校長以下数名(あとで全員死亡)以外は生存者はいないと思っていた。が、昨年、生存者が何人かいると聞いた。その中の一人が宮崎さんである。他の一人は、全く記憶がないということだった。他の生存者にもお聞きして、長崎工業学校の記録、原爆の原点の記録をさらに充実させたいと思う。
(南山に関係した部分のみ掲載させていただきました。証言の後半は省略しています)

※濱﨑均さん
1945年8月9日は長崎工業学校3年生で、爆心地から10㎞の香焼島の川南造船所に学徒動員で勤務中だった。午後、市内の自宅に帰り、翌10日早朝から兄を探しに爆心地に入った。兄は同じ長崎工業学校の4年生で、8月9日は学校にいた。兄は死亡。骨になっていた。核兵器のない、戦争のない世界の実現を理想としている。元中学校教師。毎年、南山中学校2年生に被爆講話をしていただいています。(長崎平和推進協会継承部会員・長崎の証言の会代表委員)

※御真影:天皇と皇后の写真を指す。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に保管された。宮内省から「貸与」されている物だけに、慎重な取り扱いが要求され、学校が火災で消失した時に御真影を取り出せなかったということで校長が自殺した事件も起こった。また生徒たちに直視すると罰が当たって目が潰れるという理由で、見ることも禁じる場合もあった。なお、諸外国には写真さえも尊ぶこのような表現はない。    

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鶴南特別支援学校との交流会

平成23年2月10日(木)、南山中学校の3年生35名は、鶴南特別支援学校の中学部を訪問し、一日を過ごしました。今年で5年目の交流です。
 今回の交流では、南山中学の生徒がゲームや歌などの催しを企画して一日をすごします。鶴南の生徒の皆さんに充分に満足していただけるように、一生懸命に準備してきましたが、その成果が実った楽しい一日になりました。
 生徒会長の宮崎俊哉君が最後のお別れの挨拶をしました。『今日は最後の交流でした。振り返ると10月の第1回の交流に始まり、餅つき、鶴南まつり、そして今日と数少ない交流でした。僕たちはこの交流を通して様々なことを学びました。この交流は一生忘れられない、そして僕たちを人間的に一回りも二回りも成長させてくれたとてもよい交流でした。このような交流をしくれた鶴南の生徒さんと先生方にはとても感謝しています。本当にありがとうございました。僕たちは4月から高校生になりますが、鶴南の皆さんも元気で頑張って下さい。またいつの日かお互いに成長してお会いできる日を楽しみにしています。今日はありがとうございました。』

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中華人民共和国総領事館訪問

 平成23年1月26日(水)、全学年で中華人民共和国駐長崎総領事館を訪問し、交流会を行いました。これは長崎県が主催し国際課が企画したものです。昨年創設25周年を迎えお祝いをされたようですが、その一環としてこの企画が行われたようです。
 総領事館は南山学園のすぐそばにありながら、まったく接触がなく閉ざされた空間で、内部の様子を知ることはできませんでした。みんな初めて足を踏み入れることになりました。李文亮(り・ぶんりょう)総領事から直接、長崎総領事館の歴史・役割などについてお話ししていただきました。また、中国からの留学生との交流会、中国の楽器で二胡(にこ)【胡弓(こきゅう)とも言う】の演奏体験など楽しい企画に参加させていただきました。各学年40名ほどが3学年で参加しましたので、学年ごとに3グループに分かれ3つの企画を回りました。李総領事は3回同じようなお話をされたことになります。昨年の6月に総領事になられたばかりのようですが、素晴らしい日本語でお話をされました。「日本語がお上手ですね」との問いかけに「40年前、ちょうど文化大革命の時に大学で日本語を専攻するように言われました。自分の意志は通らない時代でした。でもその後長く日本勤務が続きましたが、日本語を勉強できて良かったです」と話されました。「隣の家のネコちゃんは時々”不法侵入”してきますのでよく知っているのですが、隣の家の方はどんな方なのか知りません。こうして交流をすることは大切で良いことですね」と話されました。また外には総領事専用の車が駐まっていましたが、リンカーンという車種の立派な車でナンバーの先頭には領事の領の字が入っていました。珍しいので先生方はその車の前で記念撮影されていました。
 最後に、高木英世君が日本語で、浜田叶夢アンドレ君が英語で、中ノ瀬大樹君が中国語でお礼の言葉を述べました。「今日はお世話になりました。ニュースで見ることでしか関わりのなかった中国総領事館のことを知ることができて、とても勉強になりました。この経験をどこかで活かせたらいいなと思いました。今日はありがとうございました」
 めったにできない体験ができて、温かい歓迎を受けとてもよい経験になりました。

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耐震工事が真っ最中!

 昨年の10月の授業参観の際も耐震工事の騒音でご迷惑をおかけしましたが、まだまだ耐震工事進行中です。
 校舎の体育館側(西側)生徒入口付近から工事が始まったのは10月初旬だったと思います。徐々に東側に移動し、いま中学1年生の2教室が工事中です。そのため1年生はプレハブ校舎に移っています。廊下側の壁が完全に取り崩してあります。鉄筋を丈夫な物に入れ替えて壁の厚さも大きくするようです。既に数日前に職員室や印刷室の工事が終わり、もとの状態に戻りました。ほとんど分からないぐらいに修復してあります。ただ、よく観察すると壁の厚みが増し、耐震化してあるのが分かります。校舎の外側にも新たなつっかい棒になるコンクリートが作られています。3月には工事も終わる予定ですが、色々と制約の多い(工事する人にとっては面倒な)工事ですから、少し遅れ気味のようです。早くもとのように静かな環境になれる春が待ち遠しいこの頃です。

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中3入試に向けて勉強中

明けましておめでとうございます。
 2011年に入り、中学3年生は南山高校受験に向けて頑張っています。
1月13日には『特別入学試験』があります。今回もこの入試でA合格からE合格までランクがつけられて合格発表があります。それぞれに目標を持って今回の入試に臨んでいます。3年生37名全員が目標をクリアーできるように願っています。
 1月4日、5日は13時から17時まで4時間の自習を行います。中には1月3日から学校に出てきて勉強した人もいます。回りが正月気分の中で勉強に取り組むのは大変だと思いますが、他の中学校の受験生と同じ土俵で勝負することになりますから、ぜひ頑張ってほしいと思います。

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終業式・クリスマス会

 12月22日(水)、終業式とクリスマス会が行われました。終業式では中学サッカー部の九州大会優勝旗の納め式と、同じく中学サッカー部の長崎市新人戦優勝・中学剣道部の松本善矢君の長崎県新人戦3位の報告会がありました。
 また、クリスマス会第2部の抽選会では、2年生の帯田君が1等、尾﨑君が2等で大きなクリスマスケーキがプレゼントされました。

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