南山学園の防空壕

 長崎南山学園には防空壕の跡がある。テニスコートと校舎の間の崖にそれはある。現在は土が埋め戻されているが、防空壕の穴の淵ははっきりと分かる。時々、修学旅行の学生が案内人の方につれられ見学に来ることもあったが、原爆慰霊碑が長崎工業高校に移されてからは、その数もめっきり減ってしまった。南山と原爆について記録に残すことが大切だと感じている。生徒たちにも知っておいてもらいたいと思い、証言の会で原爆の話をされている濱﨑均先生(※末尾に記す)にお願いしたところ快く書いていただいたので、その内容をここに記録しておきたいと思う。(南山学園の敷地は戦時中、県立長崎工業学校でした)。
長崎県立長崎工業学校防空壕の記憶
             (原爆当時)同校 第1本科造船科3年  濱﨑 均
                          ※原爆当時は、川南工業株式会社香焼造船所に 学徒動員中

私の記憶の中の防空壕
 校舎に向かって右手に崖がある。上は畑。この崖は軍事教練の場所でもあった。崖の上から下まで滑り降りる訓練である。腕などを擦りむくことはあっても不思議とけがはなかった。 この崖に三つの大きな防空壕を生徒たちは掘った。いつ頃から掘り始めたのか、記録はない。場所については、当時、電気科の科長・教頭であった本多輝政氏が書いた地図がある。(※「創立五十周年記念誌」P101)
 掘る道具は、つるはし・スコップで、土の運搬も人手によるモッコ・ザルである。これは家庭用も軍用もほぼ同じだった。
 学校外で〔防空壕のことが〕私の記憶にあるのは、南山手の要塞司令部(現・海洋気象台あたり)、護国神社(油木町)、香焼島の高射砲陣地である。
 学校の壕については、2年時の記憶が少しあるだけである。
 掘っている最中に空襲警報が出てそのまま壕内にいたことが何回かある。その中の一回、警報が解除されたので外へ出てみたら、壕のやや左手前方の遠い所から煙がもくもくと上がっている。方向から見ると大村であろう。当時、大村には海軍航空隊があり、海軍航空廠(工場)や工員養成所があった。(戦後はこの工員養成所が工業学校になった)それで何回か空襲を受けたことがある。その中の一回を私は見たのだろう。
 防空壕の内部がどうなっていたか記憶にはないが、当時、工業化学科2年の宮崎米敏氏がこの壕内で助かり、少しの記録がある。<後述>
 3年になってからは、原爆投下の翌日、8月10日に兄〔濱﨑さんのお兄さんも長崎工業の生徒だった〕を探しに学校へ行ったとき、防空壕を覗き、生存者を確かめたことがある。一つ目、二つ目は反応がなく、三つ目の壕で1年生が一人出てきた。木材工芸科で、家は北高来郡の長田だという。こんな状態だから家へ帰りなさいと言って帰らせた。
 以上が、私の知っている全てである。

※「創立五十周年記念誌」P101の地図
(付記:×印は、死体のあった場所である。地図の中央付近、×(赤色)機械助手と書かれたところに印がついている。これは濱﨑先生がつけられたものと思われる。濱﨑先生のお兄さんは原爆落下当時、長崎工業学校4年生で助手をされていた。この場所で亡くなられたものと思われる。)
 

長崎工業学校 幸運の生存者  〔「証言」第11集・長崎の証言の会〕
   (証言者) 宮崎 米敏     
   (聞き手) 濱﨑 均
防空壕の中で電気が切れた!
 昭和20年、私は長崎県立長崎工業学校の工業化学科2年生でした。3年生以上は学徒動員で学校にはいませんで、1・2年生が作業で学校に出ていました。校庭の隅には、たしか高射砲が据えられていたと思います。
 私は南高来郡小浜町の出身で、浜口町の電停付近に下宿していました。警報が出ると、学校近くに住んでいるものは保安要員としてすぐ登校するようになっていました。それで私も警報のたびに登校していました。御真影(※末尾に記す)の保安ですよ。
 8月9日は朝から警戒警報が出ましたので登校しとったとですよ。空襲警報が出ましたが解除になりましたね。30人か40人は登校していたと思います。そして、防空壕掘りの作業をしました。
 防空壕は校舎の裏の崖に3か所掘っていましたね。そして20メートルぐらい奥で横につなぐようにしていたんですが、前日の8月8日に開通しました。それで、土出しに壕の中へ入ったわけです。
 この時、集まった人数を前後列に分けて、前列が先に作業することになっていました。私は初め、後列におったとですよ。それが何かのはずみで前列になって壕へ入りました。後列の人は壕の外にいましたので全部死んでるんです。何で前列に入ったのか、ちょっとしたことですが私は今でも分からないんです。これが運命の分かれ目でしょうね。
 入口から20メートルぐらい奥で、暗いから電気がついていました。私はスコップでモッコに土を入れ、モッコ係はモッコをかついで外へ土を捨てに行くのです。
 防空壕は中を坑木できちっと組んで、丈夫なものでした。私がモッコに土を入れ、モッコ係が外へ出たとき、いきなり、パーンとはじけて電気が切れ、真っ暗になりました。しばらくは気絶していたようです。気がついてから「山本」と言ったら「おう」と返事がありました。原爆はピカッと光ってドーンという爆発音がしたということですが、壕の20メートル奥にいた私には光も音もわかりませんでした。
 坑木は倒れ、電気が消えたので真っ暗で何がどうなっているのかわからないところへ、1年生が「痛か!熱か!」と言って泣きながら入ってきました。私たちは戦時中の教育を受けていますから、「何ば泣くか、頑張れ」と言って、元気づけをするつもりで背中を手の平でたたきました。
 外へ出て1年生の背中を見たら、手形がべったりついていました。皮膚が全部なくなっているので、生まれたばかりの赤ちゃんのような肌に励ますつもりでたたいたものですから、手の形がついてしまったわけです。驚いてその1年生をよく見たら、あごの下とか手とか、皮膚の皮がぶらさがっているんです。それでびっくりしたんですよ。

ゴーゴーと火の柱
 外はほこりで何も見えません。どのくらい時間がたったのかわかりませんが、ゴーゴー音だけ聞こえるのですよ。校庭の端に行ってみたところ、ものすごい音で、火柱が竜巻になってゴーゴーゴー上がるんですな。色は真っ赤でした。その幅は50メートルぐらいありゃせんだったかと思いますよ。
 この火柱だけ見えて、あとは真っ暗で何も見えません。そのうち、ほこりが静まって見えるようになりました。校舎がペシャンコでした。火の手はまだありませんでした。たいていの人は校舎が倒れてすぐ燃えたと思っているようですが、そうではなかったのです。
 そのうち、「助けてくれろ」「助けてくれ」と声が出るけれども、校舎がペシャンコになって、その下敷きになっとるのですからどうしようもなかったんです。壕掘りには裸で入っとったけんどうしようもなく、手のほどこしようがありませんでした。
 いっしょにいた1年生をよく見たら”ひも”をさわっている。よく見たら目の玉が飛び出していました。気もまぐれてしもとったとでしょうな。目の玉が飛び出しているのは初めて見ました。
 学校は高台にありましたから、ここから市街を見おろしたら、何もなく平らになっとるでしょう。鉄筋コンクリートの山里小学校からはまもなく火が噴き出してきました。そして、ドスン、ドスンと地響きして音がするんですよ。今考えてみれば、浦上天主堂が壊れて落ちる音ではなかったかと思います。
 手のほどこしようもないし、ゴーゴー鳴って火の柱はあがるしで、これはどうしようもない。家から自分を探しに来るだろうから、逃げるだけ逃げてみようではないかと話し合って周囲を見たら、金比羅山の方しか、火の手のなか所はあいとらんとですもんな。

金比羅山へ逃げる
 学校からまっすぐ裏の畑を通っていきました。そのころは食糧難ですからかぼちゃやなんや、いっぱい作っとったでしたい。それが、石垣の所に一か所にかたまっていました。印象に残ったのは、親ぶたが子ぶたを連れて、周りはぺちゃんこになって助けてくれろ、助けてくれろという声の中で歩いていました。どんなにして助かったのでしょうかね。
 かぼちゃや畑をちょっと離れた所に墓地がありましたが、初めてそこを通りました。学校が燃え出さないうちに出てきたということですね。とにかく、時間の感覚はありませんでした。
 途中で、頭をけがした人が赤ちゃんをだっこしていて、「私はもうだめだからこの子を何とか連れて逃げてくれろ」と言って寄ってくるんですよ。この時だけは身の毛がよだちました。地獄ですよ。ほんと。どうしようもない。
 長崎大学の帽子をかぶった人が腸がちぎれていたり、頭から脳みそが飛び出していたり、その人はこめかみが取れとったとですよ。そんな人がごろごろいるんです。
 逃げていったのは、いっしょに壕にいた山本昇くんと二人です。一年生の生徒は「痛か、痛か」と言うて。手を引いて連れて行こうとしても、やけどして苦しかったとでしょうね。火の方に向かって走ったとですよ。金比羅山は後ろでしょう。わからんようになっとったでしょうね。追いかけていく余裕もなかったし……。どうなったでしょうかね。
 金比羅山へ行く途中に黒か雨が降ってきました。にわか雨ですごかったですよ。大粒の雨の。降った時間は15分か20分ぐらいですかな。
 田んぼや畑の道でいちばん近か所を歩きました。山の中に入ると、木の葉が全部落ちて道も何もわかりません。それで、道の凹凸もわからず、穴の中に落ちたり、木につかまったりして歩きましたが、はだしなので、いげだらけです。木は倒れていませんでしたが、全部雑木で葉が落ちてしまっていました。
 たまたま上を見たら、真っ黒か煙が舞っていました。このときはもうだめだと思いました。山に火が入ってきて、我々はもう助からんと思いました。妙なもので、そうなると腹がすわってしまいましたね。
 周りを見ても、今は、山に登るものは私たち二人だけでだれもおりません。何か目印になる物を置いていきたい思って石を探したのですが、どうしても見つからんのですよ。木の葉が落ちて石が見えないんですね。

金比羅山の高射砲陣地へ
 何とか目印になる石をと思って登っていったら、高射砲陣地に出たんですよ。陣地に行ったところが、兵隊が怒るとですもんな。何しに来たかと、そりゃもう大変な剣幕でした。こっちも一所懸命登ってきたとに。そのおごり方(怒り方)がひどかとですもん。
バラックの建物は全部飛んでしまっているし、カメやなんか転んでいて大変でした。どこをどう登って行ったのかわかりません。

西山を通って田結(たゆい)へ
 それから竹やぶを通って西山へ下りました。西山の人は浦上で何が起こっているのか知らないようでした。それで、私たちをじろじろ見らすとですよ。裸ではだしで真っ黒になってざまなかったんでしょう。靴は、当時配給制度で大事なものでしたから防空壕を掘るときははだしで、裸ですよ。そしてはだしのまま逃げてきましたのでね。回りには私たちのような人はいませんでした。私たちが一番早く西山へ来た被爆者だったのでしょうな。
 県立女学校の前あたりに来たとき、道はガラスの破片でいっぱいでしたので、これでははだしではよう歩けんと思って、ある民家に入って、ぞうりば一人一足ずつ、だれもいないので、無断でもらいました。西山の人たちは全部避難してしまったのでしょう。人間はだれもおらんとですよ。とにかく、はき物をはかんと歩かれない状態でした。
 それから蛍茶屋、本河内といきました。本河内へ行く途中、木材工芸科の中尾という先生とあいました。機械科でしたかね。その先生が「学校はどうなってるのか」と聞かすとですよ。でも、私たちのかっこうが見られたざまではないのですから、通りがかりにあった井戸で、先生がポンプをついて洗えと言われて顔や体を洗いました。
 そのころになってようやく人心地がついたようでした。それまでは逃げるのに一所懸命でしたからね。
 そのころ日見トンネルは半分がトンネル工場になっていましたが、そこを通ったとき、「宮崎くん」と呼びかけられました。ひょっと見たら小浜の人で、床屋さんをしていた人がたまたま動員でそこにいたんですよ。その人が「なんでお前は裸ではだしで歩いとるとか」と言うんですよ。足は先ほど言ったように、ぞうりをはいとるとですがね。そして「こいでよければ着んか」と言ってその人の菜っ葉服をもらい着ました。
【後半は省略】

付記(聞き取りをされた濱﨑先生が証言の後書きとして書かれた文章)
 私は8月10日の朝、機械科助手をしていた兄を探して工業学校に入ったが、運動場に寝かされていた井上校長以下数名(あとで全員死亡)以外は生存者はいないと思っていた。が、昨年、生存者が何人かいると聞いた。その中の一人が宮崎さんである。他の一人は、全く記憶がないということだった。他の生存者にもお聞きして、長崎工業学校の記録、原爆の原点の記録をさらに充実させたいと思う。
(南山に関係した部分のみ掲載させていただきました。証言の後半は省略しています)

※濱﨑均さん
1945年8月9日は長崎工業学校3年生で、爆心地から10㎞の香焼島の川南造船所に学徒動員で勤務中だった。午後、市内の自宅に帰り、翌10日早朝から兄を探しに爆心地に入った。兄は同じ長崎工業学校の4年生で、8月9日は学校にいた。兄は死亡。骨になっていた。核兵器のない、戦争のない世界の実現を理想としている。元中学校教師。毎年、南山中学校2年生に被爆講話をしていただいています。(長崎平和推進協会継承部会員・長崎の証言の会代表委員)

※御真影:天皇と皇后の写真を指す。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に保管された。宮内省から「貸与」されている物だけに、慎重な取り扱いが要求され、学校が火災で消失した時に御真影を取り出せなかったということで校長が自殺した事件も起こった。また生徒たちに直視すると罰が当たって目が潰れるという理由で、見ることも禁じる場合もあった。なお、諸外国には写真さえも尊ぶこのような表現はない。    

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