中学2年生さるく体験記

中学2年「さるく体験」
コース:原爆落下中心地~9歳の女の子が一人生き残った無防空壕跡~平和公園~白山墓地~如己堂~永井隆記念館~浦上天主堂
 
黒川 要
 『濱﨑均さんのお話を聴いて』
 僕は濱﨑さんの話はとても深いなぁと思いました。8月9日、長崎に原爆が落ちた日、この日何があったのか。どのような状況だったのか。原爆が落ちたとき皆は何を思っていたのか……。このようなことを深く考えさせられるような話でした。濱﨑さんは原爆が落ちた日、爆心地から10㎞離れた香焼島の川南造船所に学徒動員で勤務中だったそうです。そこで長崎の様子を見たそうです。最初ピカッと光り、その後ものすごいドーンというような大きな音が聞こえたそうです。そして防空壕に入り、少したって長崎の様子を見に行くと真っ白でとても大きな入道雲のような雲が空一面にあったそうです。この雲こそがきのこ雲だったのです。長崎出身の人は全員長崎に戻り、着いたときには何もなく、街が全て真っ黒だったそうです。ところどころに人間が真っ黒にこげた死体があったり、とても悲惨な状況だったそうです。濱﨑さんは自宅に戻り、翌日兄を捜しに行ったそうです。兄は長崎工業学校4年。結局見つからなかったそうです。後で学校の先生から兄のものだと思われる骨をもらったそうです。この話を聞いて濱﨑さんは兄の骨をもらったとき、どういう思いだったのだろうかと思いました。それは兄に対する申し訳ない気持ち、感謝の気持ちなど様々あったのだと思います。あの時のことを思い出しながら僕たちに話をして下さったのだろうと思いました。そして僕たちに瓦を渡しました。その瓦を触った時、ブツブツしたものがあるなとしか思いませんでした。この瓦はある人の骨の上にあったのかもしれない。しかしそれはわからないとも仰っていました。僕は、じゃあこの瓦は人をつぶしたりしていたのかなと思うと悲しい気持ちになりました。とても深い話でした。戦争のすさまじさ、どれだけ苦しかったのかという思いがとても感じられました。
 
鶴田 幸貴
 濱﨑さんの話を聞いて、もう一度原爆の恐ろしさを感じさせられました。特に印象に残ったのは背中が真っ赤になって焼けていた少年の写真です。この写真はテレビや原爆資料館などで見たことがありましたが、やっぱり何度見ても気持ちが悪くなりました。僕はなんでそこまで戦争をしなければならなかったのかと思いました。世界から核を無くして、皆仲良くすれば戦争などもしなくてすむのになと思いました。
 濱﨑さんの話で一番印象に残った言葉は「戦争は人間の仕業だ」という言葉です。確かに人間が戦争をやめれば戦争は無くなるし、戦争を人間がすれば更にひどくなっていくので、そういわれれば確かにそうだなと思いました。戦争は人間の手で抑えきれるものだと思うので、世界から核が無くなる日が来ると僕も願っています。争いはもうやめて、世界の皆が手を取り合って仲良く快適に生活できるように、そんな日が一日も早く来るようにもう一度皆で、平和について深く考えるべきだと思いました。素晴らしい世界を皆で作り上げていきたいです。
 僕たちC班は原爆資料館の前でガイドさんから戦争についての話をお聞きして、爆心地公園に行きました。そこに行くと何か分からない緊張感が漂っていました。外国人の観光客も沢山いました。そこで原爆が落とされた当時の地層を見ることができました。その地層には皿などの食器類がバラバラに砕け散っていました。それでここは家の中の台所だということが見当つきました。
 次に行ったのは平和祈念像のある平和公園です。そこは意外にもにぎやかで日本の観光客、外国人、修学旅行ではと思われる生徒たちもいました。平和公園には15の像が置いてあり、世界の15の国から寄付していただいたそうです。その15の像で一番僕が気に入ったのは何人かの人で作られた地球です。この像には世界のみんなで素晴らしい地球を作っていこうという意味があるそうです。そして何といっても平和祈念像。右手を空に向け上げているのは原爆の恐ろしさを表し、左手を横に伸ばしているのは平和という意味だそうです。
 その後、キリスト教の人たちの墓地に行きました。原爆の落ちた同じ日に無くなった人が多く、同じ名前の人も多く見られました。
 最後に如己堂に行きました。永井博士が住んでいた所で、タタミ3畳分しかないので、実際に見てとても小さくて、こんな所によく住めたなと思いました。3人で住むのだから一人一畳分しかないことになります。僕だったら絶対に住めないと思いました。隣にある永井隆記念館で永井博士の生涯をうつしたビデオを見て、当時使っていた食器や医療器具、博士がのこした小説などが展示されており、色んなことが分かりました。永井博士は島根県生まれで、長崎医大を卒業し1940年に同助教授となりレントゲン科の責任者となった。1945年5月頃から放射線障害が現れ始め、8月9日の原爆投下で夫人が亡くなり、自身も放射能による骨髄障害を受けた。闘病生活を送りながら原爆症患者を治療しカトリック信者としての生活記録(「長崎の鐘」「この子を残して」など)を著す。
 今回のさるく体験で長崎の歴史について深く知り、永井隆博士についても詳しく知ることができてとてもためになりました。改めて本当に長崎は良いところだと感じました。短い時間でしたが、ボランティアのガイドの方や大村特別支援学校の生徒さんのおかげで楽しく「さるく体験」ができました。ありがとうございました。
 
池田 豊和
 今日、さるく体験学習で学んだことは放射線というのは恐いということです。なぜ放射線が恐いかというと、擦り傷でも放射線にあたると1ヶ月も直らないそうです。ビックリしました。擦り傷は普通2~3日で直るのに1ヶ月もかかるなんて思いもしなかったです。
 それに濱﨑さんは10㎞先の香焼島にいて、帰って来たら何も無くなっていて、残っているのは燃えている家や学校、そして人間の死体だったそうです。その時「恐い」という感情はなく「無」の感情だったそうです。もし僕が見ていたら気絶したと思います。僕は泣き虫で体が弱いので、たぶんそうなるだろうという予想がつきます。また、核が投下されたときの空の色はそれぞれ違っていたそうです。10㎞離れていた濱﨑さんはピンク色に見えたそうです。そのとき僕が見ていたら目が悪くなったか、遠くで何かやっているのかくらいにしか思わなかったかも知れません。
 そして僕が一番心に残って、心に傷が入ったというか、恐ろしいというか、核の脅威はひどいという思いになった写真がありました。それは背中を全焼している写真でした。その少年は自転車で配達していて核が投下されたそうです。そうなった人はいっぱいいるらしいです。治そうとしてもメスの刃が欠けるので塗り薬を塗るそうです。今でもまだ直っていない人がいるそうです。もし、僕がその立場だったら、一生傷を負うというのはいやなので、どうしても治して欲しいと医者に頼むと思います。それが叶わなかったら塗り薬を塗って直らないかも知れないけれど、塗り続けると思います。
 なぜアメリカが核を投下したかというと、この戦争が面倒臭くなったからだそうです。核実験が砂漠で行われ成功したので、長崎の造船所が多い地区に投下する目的で、本当は朝に投下するはずだったのですが、大きな入道雲があったのでそこに投下できず、そうこうする内に11時ごろになって入道雲に大きな穴が空いてパイロットは「今しかない」と思って投下したそうです。その時が昭和20年8月9日、11時2分でした。僕は昭和に生まれなくて良かったなぁと思いました。今日の話で、原爆の恐ろしさや脅威が分かりました。僕は人を傷つけるものをなくしたいと思いました。